石田純一 |
「文化」というのが何を指すのか知らないが、不義密通だの姦通罪だのがない現代においても、「不倫」は社会を揺るがす重大事象であるかのようにマスメディアで扱われる。個人的には「それぞれの問題なんだからほっといたれや」と思うけどね。
で、なんで「不倫」というものが問題になるかというと、性欲に「所有」が結びついているからだ。
カントは結婚について「互いの性器を所有することだ」と言って、ヘーゲルはそれを「身の毛もよだつ恥ずべき考え」と批判したことは、ちょっと前のエントリーで触れた。
生理的な欲望に「所有」が混合されると、劇薬ができてしまうことが多い。食欲と混ざると、「食い物の恨みは恐ろしい」なんてことになる。私は「シュークリームを余計に食べた」ことを、二十年以上経った今も妻からなじられる。
もともと「所有」というのが、暴力に結びついていることが多いのだ。これまた前のエントリーで取り上げたハンムラビ法典でも、「目には目を、歯には歯を」と復讐による暴力は抑制するくせに、「盗み」という「所有」を侵害する行為に対しては、死をもって報いることが多い。
経験から言っても、店舗で万引に遭った時など、怒りから「死ね」という言葉が口をついてでてしまうわけで、近代法以降の量刑がどうあろうと、「盗み」による「所有への侵害」が暴力への敷居を低くすることは確かなようだ。
こうした「暴力の引き金」について、一般には性欲や食欲などの欲望の側から、野生動物の比喩など交えつつ「本能」として説明されることが多いように思う。しかし、所有を侵害されたことに対する暴力は、よく「正義」に沿って語られる。「本能」に沿った動物の場合のように単線的ではなく、むしろ所有の側から欲望に「暴力」を付与するのではないか、と考えるべきではないだろうか。
こうした考察はとりたてて珍しいものではなく、昔から「個人財産」を諸悪の根源とし、所有の否定して全ての財産を共有する「理想」が語られてきた。それはプラトンに始まり、トマス・モアの『ユートピア』なんかもよく知られた例だろう。
では、どうして所有が暴力の引き金になってしまうのかというと、所有があやふやで曖昧なものだからだ。
ハイデガーは、所有、すなわち現存在は、世界へと投げ込まれた存在であり、不安に満ちたunheimlichなものだという。このunheimlichをそのまま「不気味」と訳してしまうとまたよくわからなくなってしまうわけで、un-heim-lichと解体して“heim”の語を取り出してやる。これは「家」とか「家庭」という意味で、古くは故郷や生まれ育った土地のようなニュアンスがあった。地名などでWeilheimやMannheimにその名残がある。ドイツ語で故郷を意味するHeimatというのもある。
つまり、un-heimという、本来的にその場(家、住処)に関わりを持てない存在であるから、自分の外部の世界と関わって「意味」を持たせるわけで、それがすなわち「所有」となり、存在を規定するのだ。
それについては、シルヴァスタインの名作絵本「ぼくを探しに」に出てくる、目のついたパックマンみたいなのをイメージしてもらえばいい。欠けた部分があるので不安になって、世界を転げまわるアレである。
ハイデガーは現存在の欠けた部分について、「Noch-nicht」という語を充てた。「未了」とか「なお〜ない」と訳される。
そして、ハイデガーはそれについて「良心Gewissen」」という語を持ち出してくる。これは「ちゃんと完了せんとなあ」という気持ちである。そして、「良心の呼び声Gewissensrufes」とは「きちんと終わらせろよ自分!」というプレッシャーなわけだ。
その「Noch-nicht」を完了するとき、現存在は「死ぬ」し、世界・内・存在は「終る」、というか、死ぬことでしか完了できない。生命保険でしか清算できない巨額の借金みたいな感じだ。
ハイデガーの哲学では、シルヴァスタインの絵本のように、まん丸な自分になるハッピーエンドはありえない。
Noch-nichtという不安を抱えるが故に、人間の存在は現存在=所有となり、周辺の事物を所有し、自らの在る場所を所有し、住むための土地を所有する。「住む」ことは、そこ安心して眠ることであり、睡眠欲を満足させることである。性欲・食欲ときて、本能的な三大欲望の「睡眠欲」に所有が絡んだ時、人間は土地を所有することを望む。
土地の所有について、原初においてそれは、神によって与えられるものであり、神とは土地を与えるものとして存在したとも言える。
漢字においても、所有の「有」とは、元々人(ナ)が肉(月)を神に捧げる形だ。そして「所」は聖所・霊廟を指し、戸は神意を蔵するところ、その入り口(戸)の前に呪鎮として斧鉞の類を置いた形が「所」である。
所有は神によって正当化されるものだ、という意味の背後に、その土地から「他」を排除すること、そのための「暴力」の正当化が隠されている。
そしてその土地で安心して食べ、安心して繁殖行動をしようとし、さらに財産を蓄え、己の子孫にそれを引き継がせようとするなら、それらを行う「土地」の所有は、絶対のものとしなくてはならない。
このように全ての所有が「土地の所有」から派生し、それへの侵害がやすやすと暴力を誘発することになる。
暴力は、所有が不安からくるため、その不安を無くし、所有を確固としたものにする、そのためのものだ。
それを神によって正当化するため、その必要がなくても暴力をふるって生贄を捧げる。
やがてそれは「法」として語られるようになり、「正義」という価値を身にまとう。
所有は欲望に絡んだ形で現れるため、そのものも本能であり煩悩のような欲望として語られがちだが、それは人間の「存在」に関わるものだということをハイデガーは示す。
と、こうやって書いてみると、なるほど後世に「現存在分析」などの元になったわけがわかるような気もする。しかし、なぜそれがよりにもよってナチなのか。
それについては、ハイデガーがその言葉を周到に避け続けた「ふるさと」(ここはあえて平仮名で)について考えると、その存在論の根元とともに見えてくる、というところで次回に。
ちなみに、ハイデガーはハンナ・アーレントを愛人にして「不倫」の愛にふけっていたのが知られているが、その他にも色々やらかしていたらしい。
で、最後まで添い遂げた妻がそのことを知らなかったかというと、そうでもないようだ。
ハイデガーの二人の息子のうち、次男はハイデガーのタネではない、という。
妻が死ぬ間際、息子にそう打ち明けたのだそうだ。
おそらく、先に死んだハイデガーは、そのことに気づかないままだった。
ハイデガーと妻と二人の息子 |
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