ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール |
とりあえず「まず科学とか忘れてちょ」で始めてみたけど、ツォリコーンのゼミにやってくる「生徒」たちは科学者(心理学者や精神科医、精神分析学者)ばっかなんで、問答してて疲れちゃったみたい。
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(Hはハイデガー、Sはゼミナール参加者)
S わたしは自分の席を利用しています。坐っているのです。
H テーブルは坐っていますか。「坐る」とはどういうことでしょうか。
S わたしは空間のなかでいろいろな姿勢を取ることができます。……人間は空間を満たします。
H テーブルもそうですよ。
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とこんな調子。
なので方針を変えて、やっぱりアリストテレスから始めることにしたわけだけど、カントとアリストテレスの存在論から「時間」についての論に入っている。
現象学の根本問題 |
で、やっぱり失敗したかというと、そんなことはなくて、ハイデガーは成功した「フリ」をして済ませている。
成功した「フリ」というのは──『存在と時間』をひっくり返して『時間と存在』にしてしまうことで時間こそが存在の根本だという結論に辿りついた、ような「フリ」をしているということだ。
なので、ここにハイデガーがたどり着きたかった「時間」についての話が、まるで当たり前のようにして述べられている。
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……事柄に即して時間を問うにはどうすればいいのでしょう。わたしたちは、いつと問います。しかし、時間はいつあるか(Wann ist die Zeit?)と問えるでしょうか。これもダメです。そんな問い方では時間(die Zeit)がそのうちにあるような一つの時間(eine Zeit)を問うことになるだろうからです。
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前回のエントリーで「ペンである」「ペンがある」とやって見せたのと似てると思うけど、ハイデガーのやり方というのはだいたいこのような感じのものなのだ。
そうして、以前からわかってたような「フリ」して、時間について述べ立てる。
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そこから次の問いが生まれます。存在が現存在(現在)として規定されるなら、存在はむしろ逆に時間の側から自らの規定を受け、時間の側から保証されるのではないか、という問いです。次の一歩では、空間をもはや従来のように、いつも空間の内にものとして存在する物体からだけ規定するのではなく、また、時間をもはや時間のうちで動かされる事柄からのにみ規定するのではなく、空間を空間として、そして時間を時間として思惟することが必要となるでしょう。
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ハイデガーはまず存在論を問い直すことで、存在から時間を問い直し、そうして見出される本来的な時間による「時間性」TemporalitäteとかZeitlichkeitとかを使って、改めて「存在」を定義することを目指していた。
このゼミナールでは、一応謙虚に「問い」として語っているが、そこがハイデガーの目指す場所であったということだ。
ここで思い出されるのが、 辻村公一がハイデガーに向かって放った問いである。
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世界の大思想〈第28巻〉 ハイデッガー 有と時(1967年) |
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ハイデガーはこの問いに上手く答えられなかった。多分、図星だったのだろう。
ではこの「テンポラリテート(辻村訳だと「とき性」)」とは何だろうか?というところを次回に。
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