「つまらない」ものについて語る時、人はただ罵倒するばかりになりがちだ。なぜかというと、「つまらない」ものは人の思考を停止させる働きがあるからだ。
するとどういうことが起きるかというと、「つまらない」物を罵倒するついでに、その「つまらない」ものを面白がっている人を同時に罵倒してしまう。
本当は「つまらない」ものと、それを面白がってる人を分離させなければならないし、それを分離して語るということは、おおよそ「時代」について語ることになってくる。
面白いものはやはり時代に対して垂直に立っているが、「つまらない」ものは時代に寄り添うように寝そべっているものだからだ。
「つまらない」ものが写しとる「時代」というものはどんなのものなのか。
せっかくなので、前回取り上げた川島雄三『あした来る人』の原作から少し引用してみよう。
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「あら、あら、あら」
廊下の突き当りにある電話口で、大貫八千代は、驚いた時の癖で、少し大仰な調子で、”あら”を二つ三つ重ねて口から出していたが、
「いやあね。お父さまったら!」
ちょっと眉をしかめて言った。すると、受話器の中からは、
「来てくれるかい?」
と、渋い低音(バス)が響いて来た。
「行かないと困るんでしょう」
「そりゃあ、困るな」
「じゃあ、参ります。なんとか都合つけて──でも、とんきょうだわ」
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これ、一応本当の親子の会話なのだが、どこか愛人と「パパ」のようなやりとりである。ちなみに、「とんきょう」というのは古い映画でないと耳にしない単語だが、今は「すっとんきょう」という強調した表現で生き残っている。
で、このニヤついたおっさんの顔が浮かんでくるような会話だが、実はこのおっさん、というか「お父さま」の乗った社用車が人をはねたので、その連絡を娘にしている場面なのだ。
「お父さま」は続けてこんなセリフを吐く。
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「そうは言うが、なにも、おれがひいたわけではない。運転手がブレーキをかけそこなったんだから」
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えーっと、なんというか、「秘書が勝手にやったこと」とかいう政治家のアホ面が思い浮かぶ。
この人、この件について何にも責任を感じてなくて、はねたと言っても擦過傷程度だし、念のためにわざわざ入院させておいてやったんだから、見舞いの方は娘に自分の代理で行かせよう、という魂胆なのだ。
「お父さま」は結構大きな会社を経営していて、政治家とも付き合いがある。忙しいから、ということだが、はねてしまった貧乏学生に頭を下げるのが鬱陶しいんだろうなあ、と推測される。
で、はねた学生とこの娘の出会いとか、娘は人妻だけど離婚したがってるとか、いろいろとドラマが始まるわけである。
ストーリーの退屈さはさておいて、この「お父さま」が意外にも主人公だったりするのだが、この「お父さま」のこうしたあり方について、作中で疑問が付されることは一切ない。ということは、作者も疑問など感じてはおらず、新聞で八ヶ月も毎日毎日連載されて映画化までしたということは、同時代の読者たちもすんなりそのまま受け入れていた、ということなのである。
これが、「時代」というものなのだ。
離れてみればおかしなことも、まるでそれが良いことのように語られる。
実際、この「お父さま」は還暦になっても若い娘にモテるし、ありえないくらいの人格者なのだ。なんたって、なんの縁もない若い女性に資金を出して店を経営させているにも関わらず、その女性とはまったく愛人めいた関係を持とうとせず、その女性から「好きです」と言い寄られてもキッパリと断ってしまうのだ。
これが、昭和の「お父さま」の理想であり、井上靖の理想なのである。
とてつもなく「つまらない」
井上靖のこの「つまらなさ」は、昭和という時代の後半を生きた私を散々に苦しめた「つまらなさ」と同じもののように思われる。
それは、この世のどこかには人間の理想型があって、そこを消失点とした遠近法で世の中は描かれるべきだ、という思考形式である。
しかも、その消失点は遥か彼方ではなく、ほとんど目の前にあって、おまけになんだか小学生の描く少女漫画みたいに、やたら瞳がキラキラしていたりするのだ。
井上靖の「つまらなさ」について、本当はもっと語るべきなのだろうが、その作品を読むことはまったく苦行でしかない。
いずれまた、それについて触れることもあると思うけど、いったんここで休止させてもらいたい。ほんと、しんどいんで。
以下、おまけ。
先般の台風で「狩野川台風」というのが久々に思い出されていたが、井上靖の妻の井上ふみが、『狩野川台風のこと』というエッセイを遺しているので、一部引用しておこうと思う。
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私たちが東京へ来てからであったが、湯ヶ島のことを書くには、狩野川台風のことも加えなければと思う。あれは昭和三十三年九月二十六日であった。
靖と私は前々日から湯ヶ島に行っていた。八月一日のお墓詣りができなかったので遅くなって行ったのではなかったかと思う。もう一泊するよう両親に奨められたが、靖が用があって前日に湯ヶ島を出て夕方、東京に戻った。
伊豆はその一週間前まで雨が降りつづいていた。天城の山は水を吸い切れないほど十分に水分を含んでいた。そこへまた大雨が降って、材木として積み出すべく切り倒されていた木材が大量に川へ押し出された。それが水量を増した狩野川へと流れて修善寺橋に塞き止められ橋の上流側はダムになってしまった。支え切れなくなった修善寺橋は一気に流れてしまった。決壊したダムの水は奔流となって走り、下流一帯は一瞬にして大洪水となった。深夜であった。もともと大仁・台場あたりは低地で、大雨が降ると通行止めとなっていた地区であった。
一週間ばかり経って漸く仮橋が出来て、小型車が通ると聞いた日、私は何はともあれ、両親のいる湯ヶ島にかけつけた。両親が一応無事であることは、洪水の翌日視察に飛んだ新聞社のヘリコプターが井上家のすぐ近くの湯ヶ島小学校校庭に降りたので、すぐ東京の家に知らせて下さっていた。
車が下田への街道へ入ると、一応水は引いたとはいえ、そこはもう一面水浸しの跡であった。満足な家は皆無と言ってよかった。あるのは柱だけの家であった。濡れた布団がそこここに引っかかっていた。伊豆半島を縦断する山と山の間は海になったのだ。この間に住んでいた人は、ほとんど逃げる間も無く流されて命を失くした。
修善寺の橋の袂にあった中学校の宿直の先生は、懐中電灯を振りながら校舎もろとも流されて行ったと聞いている。バスケットボール入れのポールの頭の方だけが砂から上に出ていた。
市山では川よりずっと高い場所にあった家が家族が入ったまま流された。二、三百メートルほども離れている山からの水が畑を通って家を押し流したのであった。それは私たちが、湯ヶ島への行き帰りに車の窓からすぐ上に見ていた家だ。思わぬことが起こるものである。
私の従姉一家は人生の半分を過ごした満州から、戦後着のみ着のままで引き上げてきた。その後職を得て韮山の狩野川ベリに住んだ。家財道具もなんとか一通り揃えた。
あの夜の大雨に不安を感じながらも一家は寝んだ。一時して裏の広い空地に積み上げられていた東洋醸造(今はもうない)の空き瓶がぶつかり合う音に目覚めた。水だ! と直感した。驚いて飛び出すと、水はもう腰まで来ていた。岸から投げられたロープに掴まって、やっと岸についたときは水は胸まできていた。家内一同助かったのは命だけであった。
湯ヶ島の父の話では、一晩中雷のなるような音がしていた。狩野川にある大小の岩がぶつかり合って崩れて流れる音であった。下田街道沿いの狩野川は、大小の岩の間を流れる清流で両側は樹木に被われ鮎を釣る人が点在した風情に富んだ川であった。それが一夜にして裸川になってしまった。
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狩野川は裸川になっても鮎はいて、すげ笠を被った鮎釣人を流れのそこここに見る。天然の鮎の美味しさだけは変わらない。
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