2016年5月13日金曜日
『陶庵夢憶』の焚書
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隋の嘉則殿では書籍を三類にわかち、紅瑠璃、紺瑠璃、漆の軸で見分けをつけるようになっており、殿には綿入れの幕を垂らし、ぐるりに飛仙を彫刻してあった。帝が書庫においでになって、隠されたばね仕掛けをお踏みになると、飛仙が幕をまくり上げ、本箱の扉が自然に開く。帝が出てゆかれるとまたもとの通りに閉じる仕掛けになっていたそうだ。隋の蔵書はおよそ三十七万巻であった。
唐のときには内庫の書籍を東宮の麗正殿に移し、修文・著作の両院学士を置き、名前を届け出たものには出入りを許された。大府からは毎月蜀都(四川成都)の麻紙五千枚を給せられ、季ごとに上谷(じょうこく・河北省)の墨三百三十六丸を給せられ、年ごとに河間・景城・清河・博平四郡の兎の毛皮千五百枚を給して筆を作らせられた。甲乙丙丁にわかって、唐朝の書籍はおよそ二十万八千巻であった。
わが明朝の宮中の秘籍は、それこそ数えることができないくらいで、『永楽大典』の一書だけでも、いくつかの書庫に堆積されている。わたしの蔵書などはそれに比べればたかだか九牛の一毛にすぎず、物の数でもないのである。
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以上、『陶庵夢憶』からの抜粋である。
文中の『永楽大典』てのは、有名な明の永楽帝による勅撰集で、二万二千巻余りあったといわれている。現在は散逸して、二百ちょっとしか残っていない。内容は、歴史やら占いやらとにかく重要と目される記録を全部蒐合したもの、とのこと。
中国史では「焚書坑儒」ばかり有名だが、その後の歴史においてもしょっちゅう戦乱で本が焼かれている。『陶庵夢憶』の著者張岱(ちょうたい)も、何年もかけて集めた数万の書籍を一日で兵隊たちに焼かれたそうだ。
しかしまあ、当時「書籍」は貴重品で、一抱え持って町に行けば一財産になったというのに……軍人がもの知らずなのは昔から変わらんね。張岱の蔵書は焼かれただけでなく、多くは破かれて矢じりを拭くのに使用されたという。
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