2015年4月30日木曜日

2015年4月29日水曜日

本を読まぬものはやがて……

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それ生まれながらの閹人(えんじん)あり、人にせられたる閹人あり、これを受け容れるものは受けいるべし(マタイ伝十九章十二節)
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2015年4月27日月曜日

ちさいとちいさいとちゃっこい

 娘がまだ赤ん坊だった頃、妻は毎日「ちゃっこいねえ、ちゃっこいねえ」と娘を見るごとに口にした。
「ちゃっこい」というのは、方言なのか妻の家独特の言い方なのかわからないが、私も口まねして「ちゃっこい、ちゃっこい」と言った。
「ちゃっこい」というのは、「ちいさい」というよりも良い響きがあった。
「ちいさい」は反対語として「おおきい」があり、他と比較する趣があるが、「ちゃっこい」はただ「ちゃっこい」のだ。
 それはときに「ちちゃこい」になったり、さらに「ちっちゃこい」になったりもした。

2015年4月24日金曜日

つげ義春『ゲンセンカン主人』は恐ろしい漫画であるということまたは「誰でもいいから教えて『存在してない』ってどういうことなの?」の補足として

 三年ほど前に本宅で書いたエントリーで、「誰でもいいから教えて『存在してない』ってどういうことなの?」というのがある。つげ義春の『ゲンセンカン主人』について述べたものだ。
 改めて読み返してみて、「ちっとたんねーな」と思ったので、ちょこまかと追記してみたい。

2015年4月22日水曜日

溝口健二『東京行進曲』と小津安二郎『東京の女』と戦前昭和の新聞


 先日(四月二一日)、Facebook経由でお誘いを頂き、『活弁!シネマートライブ』という催しに行ってきた。無声映画を活弁付きで見るのは初めてである。
 行ってみてわかったのは、なるほど昔の「映画」というものは、生の、「ライブ」感覚あふれるものだったんだな、ということだ。チャップリンが最後まで守ろうとしたのは、この感覚だったのだろう。代表作『街の灯』は、周りがほとんどトーキーに切り替わっていく中で作られた、サイレント・ムービーの最後の輝きと呼べるものだ。
 でもまあ、田原俊彦より江川宇礼雄の方がハンサムだけども。(その場にいた人だけわかるネタ)
 上映されたのは溝口健二『東京行進曲』と小津安二郎『東京の女』である。ビッグネーム二人の作品の中でも、映画館で見る機会の少ないものだ。客の入りは、平日の昼間なれど、ほぼ満員であった。(以下ネタバレ

2015年4月16日木曜日

自由ってなんて不自由なんだろう【エドゥアルド・ガレアーノ訃報編】

エドゥアルド・ガレアーノ、
収奪された大地―ラテンアメリカ500年
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本書に対するもっとも好意的な論評は、権威ある批評家からではなく、本書を発禁することで結果的に本書を賞賛することになった軍事独裁政権からなされた。
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ブラス・デ・オテーロが述べているように、「彼らはわたしの書いたものを人々に見せようとしないが、それはわたしがわたしの目で見たものを書くからである」
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 先の四月十三日にエドゥアルド・ガレアーノが亡くなった。七四歳だった。もうずっと肺がんでふせっていたのだ。
 今までこの人に触れることはなかったけれど、以前本宅で書いたエントリー『ピノチェトと愉快な仲間たち』に重なる部分を『収奪された大地』から抜き出しておこう。

2015年4月15日水曜日

詩の戦争は終わらないままだったのだろうか?


  上掲の動画は映画『ブリキの太鼓』の海辺のシーンである。
 ギュンター・グラスは高校時代に『ひらめ』を読み、大学に入ってから名画座で『ブリキの太鼓』を観て、それから原作を読んで、さらに『猫と鼠』と『犬の年』を読んで、またさらに……
 まあとにかく、いろいろと読んでいるのだった。
 そのギュンター・グラスが死んでしまった。
 八七歳と言うから若くはないのだが、直前まで元気でいたそうなので、何とも残念だ。なお、死因は明かされていない。

2015年4月13日月曜日

すべての手紙は暗号で書かれているもしくは映画『イミテーション・ゲーム』とアラン・チューリングなどについてのもろもろ

 昔々、とある村に一人の少年がいました。少年は村の外から来たお金持ちの旦那様の元で働いていました。
 ある日、隣の村へパンとお菓子を十個づつ届けるように言いつかりました。少年は隣の村へ行く途中とてもお腹がすいたので、パンとお菓子を半分食べてしまいました。そして、素知らぬフリをしてパンとお菓子を五個づつ届けました。
 次の日、少年はまた同じお使いを頼まれました。ただ今回は手紙もいっしょに届けるように言われました。少年はまた途中でお腹がすいて半分食べてしまいました。そしてまた同じように知らんぷりして届けると、手紙を読んだ先方が「半分食べたな!」と怒りだし、少年を折檻しました。
 その次の週、少年は同じくお使いに行かされました。今回も手紙付きです。少年は頭が良かったので、この間の失敗は手紙のせいだと気づいていました。きっと手紙が少年の盗み食いを見ていて言いつけたのに違いない、と。少年は手紙を石の下に隠してこっちを見られないようにしてから、ゆっくりパンとお菓子をぱくつきました。

2015年4月12日日曜日

貨幣はどれだけ集まると「財産」になるのだろうか?

ヤップ島の石貨
「貨幣」と「財産」はどのように違うのか。
「貨幣」の集合したものが「財産」とよばれるようになると、とたんに別な働きをするようになる。
 それはどのくらい集めればいいのだろう?
 とりあえず、一人では持ち運べないほどの重量であれば、それは「財産」と呼べそうだ。

2015年4月11日土曜日

「朝」は何もかもが遅れる時間だということもしくは勅使川原三郎「朝」について

昨晩、勅使川原三郎のダンス公演「朝」を見に行った。
 舞台の左手に下がる、白い大きな布の向うにある、差し込む光線の予感に対し、勅使川原三郎はそれを拒絶するかのように体の様子を次々に変化させていた。

2015年4月10日金曜日

人の眼を傷つけても金を払えばすむのなら「大金持ちは万人の眼をえぐりうる」(E.レヴィナス)よね?もしくは『貨幣の哲学』についていろいろ

レヴィナス、貨幣の哲学
 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)
「民」という漢字が眼を潰された人からきている、ということを以前
ないしょないしょのないしょのはなしは「どれいのヒミツ」
というエントリーに書いた。
 そこでは、眼を潰されたのは神への生け贄であって、のちに眼の周りに入れ墨をほどこした奴隷のことになり、それが「民」とされるようになったのではないか、ということをぐだぐだと述べた。
 「目には目を」が「目には金を」であるなら、「大金持ちは万人の目をえぐりうる」ということになる──ということはレヴィナスが最初に指摘したわけでもないみたいだけど、このレトリックはとても印象的なのでレヴィナスの発言として採用したい。
 すぐに気づくと思うけど、この比喩は「お金」という存在の暴力性を語りつつ、金によって沈黙を強いることの隠喩にもなっている。ヤクザ用語でいうと「金ぐつわをかまされる」というやつだ。
「民」というものは、すでに「お金」によってその眼を刺されている、と言うこともできるだろう。

2015年4月8日水曜日

人を殴っても金を払えばすむのなら大金持ちは殴り放題だよね?もしくは『暴力のオントロギー』から「お金」の話へ

「物々交換というものは存在しない」
 ……と言ったなら、どう思われるだろうか。ほとんどの人が「そんなバカな」と身近な例を挙げてくれるだろう。人類学に詳しい方なら、サイレント・トレードやポトラッチのことを教えてくれるかもしれない。
しかし、人類学上のそれらの事例は、通常の人たちが頭に思い描く「物々交換」とは違うものだ。普通「物々交換」といえば、交換されるのは同じくらいの価値のもの、と無意識に考えられている。人類学が指し示す事例はただ物を渡し合うだけで、交換する物の「価値」については考慮されないのだ。幼い子にぬいぐるみをプレゼントしたら、ドロドロになるまで握りしめたチョコボールをお返しにくれるのと大して変わらない。

2015年4月6日月曜日

「哲学者は己の論ずるところを実践せず」?もしくは哲学者とお金の話

「太ったブタよりやせたソクラテスたれ」と、大河内一男は実際には言わなかったそうだが、だいたい哲学者といえば食うや食わずでも偉そうにしてる輩、というイメージがあったりする。そういうのってディオゲネスが元になってんじゃないかと思うけど、実際の哲学者ってのはそうそう貧乏ばっかりでもない。
 以前書いたエントリータレスがオリーブの搾油器で儲けた話をしたけど、これは史上初の信用取引だとかなんとか言われてたりする。
 古代ローマにもセネカってのがいて、このおっさんは当時超のつく大金持ちだった。

2015年4月5日日曜日

いけてる生け贄といけすかない生け贄の話

    この動画はアンドレイ・タルコフスキーの『サクリファイス』である。サクリファイスとは神への捧げもの、アベルが祭りしヒツジの初子であり、アブラハムが捧げんとした息子のイサクである。
 その聖性が極限に達したのが、神への無垢なる子羊の生け贄、イエス・キリストというわけだ。
 三日後に復活したことで暴力性を払拭したとき、ただの犯罪者の公開処刑という見せしめは、聖なる生け贄の「儀式」へとその意味が逆転し、イエス・キリストは無上の聖性を獲得した。