2014年11月30日日曜日

忠臣蔵って……なんだっけ……


 師走とともに『忠臣蔵』の時節がやってくる。
 正直、『忠臣蔵』についてはよく知らない。知りたいとも思わない。
 その昔、日本人の一般常識だったそうだけど。
 今となっては、浅野内匠頭が吉良上野介を電柱で殴った、というところからしてよくわからないことになっている。力持ちだな、浅野。

2014年11月27日木曜日

おばあさんがごく普通のことのようにしてではなく恐ろしそうに話してくれたこと

 これまで「なぜおばあさんというものは怖い話をごく普通のことのようにして話すのか」というエントリーを、脳みそのすみにしまい込まれた記憶をほじくり出しては書いてきた。
 今回はちょっと、おばあさんが「本当に恐ろしい」という風に話してくれたことを書こうと思う。

2014年11月23日日曜日

もしも発禁商法なんてものがあったらとっても迷惑だ

やしきたかじんさんの長女、出版差し止め求め提訴 晩年を百田尚樹氏が描いた「殉愛」

 また何が起こったのかと思えば、こないだ亡くなったやしきたかじんの遺産(?)をめぐって骨肉の争いがあり、百田尚樹というベストセラー作家が、一方にあからさまに肩入れした本を書いてもう一方を罵倒しまくり、罵倒された方が起こって訴えた、とのこと。
 どういう成り行きなのか、他人様の家庭の事情に首を突っ込む趣味は無いんで勝手にやってりゃいいんだけど、もし出版差し止め即ち「発禁」になったら、すごく迷惑だなあとげんなりする。
 これで裁判所への申し立てが通った日にゃ、店頭から『殉愛』とかいう本が消え失せ、これから先何年も古本屋に持ち込まれることになるだろうからだ。そういや、ひゃくたなおきって、百タタキに似てるよね。
 あらかじめ断っとくと、親族からのクレームで出版差し止めってくらいで、古書価にプレミアがついたりしないから。

2014年11月20日木曜日

お釈迦様はとっくにご存知だったとさ


    アナンダがブッダに尋ねた。
「女性は、阿羅漢(聖者)の悟りをえることはできないのでしょうか?」
 ブッダは答えた。
「そんなことはありません。女性も阿羅漢に達することができます」

2014年11月10日月曜日

【平和こそが最も凄まじい威力を持つと言ったところで一区切り編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

「平和こそが恐るべきものだ。それは表向きと裏腹に、地獄を隠し持っている」
Temo la pace più di ogni altra cosa: mi sembra che sia soltanto un'apparenza , e nasconda l'inferno.

    フェリーニの『甘い生活 La Dolce Vita』の有名なセリフだ。
 なぜ「平和」というものを、ことさらに嫌悪したり、「お花畑」とか言って鼻で笑ったり、左翼とかレッテルを貼って遠ざけようとする人々がいるのか。彼らにはある共通点があるように思う。

2014年11月9日日曜日

【サムライを透してみるとわかる『主人と奴隷の弁証法』ってちょっと無理があるよね編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む
 ヘーゲルの哲学の中で、それに批判的な人たちも重要視するのが、「主人と奴隷の弁証法」だ。縮めて「主奴弁」なんて呼んだりする。
 自由ってのは、獲得するのに闘争を伴うから、勝った方が「主人」になり、負けた方が「奴隷」になる。奴隷が労働して主人がそのあがりをいただいちゃうわけだけど、労働によって外部の「世界」と関わるのはつねに奴隷の側なので、そのうち主導権が奴隷に移っちゃって主人は主人でなくなる、と、だいたいこんな話。身近でも似たようなことがあるな、と気づく人もいるだろうけど、ヘーゲルが唱え、コジェーヴが解釈した「弁証法」は、「社会」や「歴史」の流れの中に起こるものなので、ちょっと鬱陶しい。
 ここで素直に考える人は、「このあと主人は奴隷になって、奴隷が主人になるの?」と言うと思うけど、そういう逆転は起こらない。それは「主人A」と「主人B」が争うとそうなるけど、「主人」と「奴隷」はもともと欲望の在り方が別物だから、弁証法的に止揚されることはないんだ。実際は「主人」が「闘争」を根源とすることで、世襲を平和裡に繰り返そうとすると、その根源である「闘争」で自らが倒れてしまうのだ。と小難しく書いてみたけど、要するに「売り家と唐様で書く三代目」てわけで、闘争をもって存在するはずの「主人」が闘争なしに世襲されるならば、そこに浮き上がる「世襲」にその根源たる「闘争」をもとめられてしまう。なので、なーんもなしに「世襲」したがるひとは、「闘争」すなわち「戦争」が好きなんだよね。ここに「奴隷が労働を透して世界と関わる」ことはまったく関係してこない。

2014年11月8日土曜日

【サムライは愛国心を持たないし持てないんだよ編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

「尊王攘夷」というものがあった。
 明治維新の原動力となった、と普通は解説されている。でもこれ、ほんとのとこは幕府への「いやがらせ」みたいなものなんだよね。借金の古証文を持ち出して、さーどーするどーするとやってるようなもん。
 この四文字を唱えて維新の志士が命を懸けて頑張った、ということはなくて、実際に彼らが命を懸けたのは自分の「名」を挙げるためだ。サムライの本質に立ち返ったわけ。
「尊王」も「攘夷」も、昔々のずーっと昔、サムライというものが貴族から自立しだした頃、その暴力のアリバイとしてつくられたような、言わば「言い訳」だ。「天皇を尊敬するから大目に見てね」「夷狄(蝦夷など)を打ち払うんだからかまわないだろ」てな感じ。つまり建前なんだが、幕府は建前をうっちゃってしまえるほど本音(つまり土地という世襲的「財産」への欲望)に自覚的じゃなかったんで、言い返すこともできずにずるずる引きずられてしまった。
「尊王攘夷」てのは別に絶対のイデオロギーじゃなくて、ただの幕府への嫌がらせだったから、幕府が倒れたとたんに「そんなことも言ってたね」てな具合になった。攘夷はもちろん尊王だって、天皇を東京に移して関白とかの位を全部なくしてわやにした。

2014年11月7日金曜日

【そして誰もサムライになれませんでした編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

思出の記上,下(1950年) (岩波文庫)
…………
……「ーー最早(もう)詮(あきら)めた。卿(おまへ)を殺して母(わたし)も死ぬから、其樣(そう)思ひなさい。其とも口惜しいと思ふか。思はんか。愼太郎、さあ御(お)死に、此(この)短刀で御死に。卑怯者、さあ死なんか」
黒塗の鞘をはらつて氷の如き懷劍(くわいけん)をつきつけつきつけ母(はゝ)は、僕に詰め寄つた。
…………
近代デジタルライブラリーから
徳富蘆花の思い出話である。小説形式なのでやや盛ってあるかと思うが、似たようなことはあったのだろう。
 徳富家は元サムライだからやっぱ厳しいね、とそのまま受け止めたくなるけれど、こうまでしないと自らのアイディンティティが保てなかった、てことでもある。江戸時代にはこんなことしやしない。ふつーにでかくなれば、そのまんまサムライになったからね。

2014年11月6日木曜日

【とにかく『七人の侍』には感動してしまうわけだけど編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

    はい、『七人の侍』ですね、まーすごいですね、かっこいいですね、この音楽を聴くだけでぞくぞくしちゃいますね、とついつい淀川長治になってしまいますね。

2014年11月5日水曜日

【しかしサムライがプロレタリアになることはなかったのだった編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

マルクス・コレクション 全7冊セット
 …………
日本は、土地所有が純粋に封建的で、小農民層がよく発達している。これを見ると、ブルジョア的偏見によって書かれている我々の歴史書のどれよりも、ヨーロッパ中世についてはるかに忠実なイメージを提供してくれる。中世をあしざまに言って、その犠牲の上で「リベラル」であろうとするのは、あまりにもいい加減である。
…………
 以上は『資本論』第一巻七編二四章二節の注一九二である。(今村仁司・三島憲一・鈴木直訳)
 要するに、日本の方がずっと中世らしいし、日本の方がずっと封建的だよなあ、てこと。マルクスはそれをブルジョアのせいにしてるけど、キリスト教の影響の方がでかいような気がする。とにかく『資本論』てのは、マルクスのブルジョアへの怨念が満ち満ちてるんだよね。
 資本論の一巻目は経済史の本としても読めて面白い。イギリスにおける労働者階級(プロレタリアってやつね)の起原については、十五世紀最後の三分の一と十六世紀最初の数十年に起こった、とする。何が起こったかというと、封建家臣団が解体されて、法の埒外におかれた大量のプロレタリアが、労働市場に投げ出されたのだ。ちなみに十八世紀くらいまでイギリスったって人口の八割は農民だった。そして、生産手段も生活の場も失われた「労働者」は、ほとんど奴隷と紙一重だった、とロックは言う。

2014年11月3日月曜日

【サムライが首を取らなくなったのはどうしてか編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら


 前回の続き。
 秀吉という百姓上がりの男が天下を平定し、関白になることは、世の中の認識に大きな変化をもたらした。どのくらい大きいかというと、目に見えないくらい大きいので、変化した方もよくわかんなくなるくらいだった。きっと秀吉もわかんなかったろうし、同時代でそれがわかってたのは、たぶん一人もいなかっただろう。
 ここでサムライというものの在り方を大きく変えたのは、刀狩りとかじゃなくて、太閤検地だった。

2014年11月2日日曜日

【金がないのは首がないのといっしょやというけど土地はサムライにとって首以上だった編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

「金がないのは首がないのと一緒や」というのは、西原理恵子 の名言、ではなく正確にはお母様の淑子さんの口癖であったかと思う。
 実は資本を意味するcapitalも、その語源は「頭部」、すなわち「首」である。capitaはcaput(頭部)の複数形。元々はラテン語のcapitalisで、その使用はおおむね死にまつわるものだ。つまり、首をはねること。現在でもcapital murder(死刑に値する殺人)やcapital crime(死罪)という言葉があるが、これは死刑と言えばでっかい刃物で首チョンパしてたころの名残なのだ。
 資本主義というのは、このように語源的に血なまぐさい臭いを持つ。そのcapitalが「資本」という意味を持ち出したのは、十九世紀も後半のことになる。

2014年11月1日土曜日

【サムライを滅ぼしたのは廃刀令でも廃藩置県でも四民平等でもなくて「地租改正」だよね編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

「農地解放」といえば、イコールGHQなのが常識になってるけど、実は似たような例が日本になかったわけではない。
 江戸時代も後期になってくると、農民も土地の取引に巻き込まれることが多くなり、不作時の借金のカタに土地を取られ、小作に身を落とすものも少なくなかった。
 商人が多くの土地を押さえてしまうと、どうしても年貢の実入りが悪くなる。そこで藩が徳政を行い、土地を元の持主に返したり、商人から召し上げた土地を小作に分け与えて本百姓に取り立てたりした。もちろん、それまでの小作料はそのまま藩への年貢となった。これは佐賀藩や黒田藩の例が知られている。