「なんでよりにもよってナチなのか?」というのは、戦後ハイデガーに取り憑かれた人たちが揃って抱えた疑問だった。
「ナチを賛美した」というところから遡っても、どうしてそれが「存在」に繋がるのか、よくわからなかった。
ナチとの関連として、ハイデガーが『存在と時間』の最後の最後にちょっとだけ「民族」について触れたことについても、その「民族」という単語の存在が指摘されるばかりで、それが存在論とどのように繋がってくるのかよくわからなかった。
なので、ハイデガーはずーーーっと「二十世紀最大の哲学者」のままだった。
2017年11月4日土曜日
2017年10月14日土曜日
2017年10月6日金曜日
2017年9月18日月曜日
2017年8月13日日曜日
ほんまでっか?ハイデッガー!【…は「時間」について判って欲しかったらしいんだけど編】
ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール |
2017年3月11日土曜日
2017年3月9日木曜日
ほんまでっか?ハイデッガー!【…の「気づかい」ってのは何なんだろうの続き編】
世の中には臨死体験と呼ばれるものがあるそうだ。生きているうちに「死を想う(メメント・モリ)」のではなく、実際に死にかけて死の淵にあるときに経験すること、それを「臨死体験」と呼ぶのだそうだ。その時、人は自分の人生を丸ごと回想したりするという。そんなことになったら恥ずかしくて悶え苦しみそうだが、死ぬ間際ともなればどうでもよくなるのだろう。
さらに上級者になると、なにやら川やら花畑やらがでてきて、その向こうに親しくしていた故人が手招きしてたり、来るな来るなしっしっとしてたり、楽しそうに遊んでいたりすると聞く。故人が取っ組み合いの喧嘩をしていたとか、白目をむいてちあきなおみのマネをするコロッケをマネていたとかは聞かない。あったらいいと思うが。
そうした「体験」が死後の世界の存在を証明しているかはさておき、ここでわかるのは死の間際において、人生のあれこれはすべて「なつかしい」ものとなる、ということだ。彼岸に待ち受ける人たちもすべて「なつかしい」人たちばかりだ。
そうしたことと同じようなことを、ハイデガーに語らせると以下のようになる。
さらに上級者になると、なにやら川やら花畑やらがでてきて、その向こうに親しくしていた故人が手招きしてたり、来るな来るなしっしっとしてたり、楽しそうに遊んでいたりすると聞く。故人が取っ組み合いの喧嘩をしていたとか、白目をむいてちあきなおみのマネをするコロッケをマネていたとかは聞かない。あったらいいと思うが。
そうした「体験」が死後の世界の存在を証明しているかはさておき、ここでわかるのは死の間際において、人生のあれこれはすべて「なつかしい」ものとなる、ということだ。彼岸に待ち受ける人たちもすべて「なつかしい」人たちばかりだ。
そうしたことと同じようなことを、ハイデガーに語らせると以下のようになる。
2017年2月20日月曜日
ほんまでっか?ハイデッガー!【…の「気づかい」ってのは何なんだろう編】
誰もがそれを経験しているのに、それを直に表す単語がなくて、「あるよねー」「うん、あるある!」と『100人に聞きました』(古)状態になってしまう、そんな経験があると思う。うん、あるある。
2017年2月10日金曜日
2017年1月21日土曜日
ほんまでっか?ハイデッガー!【…の現存在について述べつつ世界・内・存在や実存についても開示していくよ編】
2017年1月20日金曜日
ほんまでっか?ハイデッガー!【…の現存在について他人のふんどしで書いてみる編】
ちょっとここで、他の人たち言を引きつつ、他人のふんどしでもってハイデガーについて語ってみたい。
……………………
《現存在》が《存在的》「である」とか《存在論的》「である」ということは厳密には、そもそも判断不可能なのである。というのも《現存在》ということで思念されているものは、或る一つの基体であり、その限りで《現存在》という概念の持つ意味は、非概念的なあるものだからである。
……………………
「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮だ」としたテオドール・W・アドルノによるハイデガー批判である。アドルノはハイデガーが「本来的」と「非本来的」に存在を区別することについて、そこにファシズムとの親和性を見出している。
ここでは「現存在」を、存在でもその概念でもないと指摘している。
本来性という隠語― ドイツ的なイデオロギー について (ポイエーシス叢書 (11)) |
《現存在》が《存在的》「である」とか《存在論的》「である」ということは厳密には、そもそも判断不可能なのである。というのも《現存在》ということで思念されているものは、或る一つの基体であり、その限りで《現存在》という概念の持つ意味は、非概念的なあるものだからである。
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「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮だ」としたテオドール・W・アドルノによるハイデガー批判である。アドルノはハイデガーが「本来的」と「非本来的」に存在を区別することについて、そこにファシズムとの親和性を見出している。
ここでは「現存在」を、存在でもその概念でもないと指摘している。
2017年1月19日木曜日
ほんまでっか?ハイデッガー!【…の解釈についての先駆者について編】
一連のハイデガーについてのエントリーは、ナチスとハイデガーが根本で一致するということの暴露を目的としている。
それには、ハーバーマスですら「この作品の実質的内容が信頼に足りえないという考えは、誤っている」と評価した『存在と時間』について、誰が見ても明らかなくらいにわかりやすく「開示」することが必要だとも考えている。
それには、ハーバーマスですら「この作品の実質的内容が信頼に足りえないという考えは、誤っている」と評価した『存在と時間』について、誰が見ても明らかなくらいにわかりやすく「開示」することが必要だとも考えている。
2017年1月13日金曜日
ほんまでっか?ハイデッガー!【…の「現存在」の正体について編】
世界の大思想〈第28巻〉 ハイデッガー 有と時(1967年) |
有と時 (ハイデッガー全集) |